ハタフェスでは初回から毎回クロージング音楽会を開催しています。
ハタを織る音、水が流れる音、人々の暮らしの声…。このまちに日々生まれている暮らしの音があります。
ハタフェスのテーマソングともいうべき「LOOM」も、このまちのいとなみが曲になり多くの人に届きました。
この音楽会を一緒に企画してくれているのは、甲府市在住の音楽家、田辺玄さんと森ゆにさん。
このまちで音を奏でることや、今までの演奏を振り返ってもらいました。
ハタオリマチニヒビクウタ|田辺玄・森ゆに
————田辺さんは、実は富士吉田に小さい頃から馴染みがあるそうですね。
田辺 : いま自分の父が継いでいる『田辺医院』が富士吉田にあるので、小さい頃もよく富士吉田で遊んでいましたね。一品堂書店に本を買いに行ったり、火祭りにもよく行っていた記憶があります。自分の血の半分は富士吉田なんだといまは思っています。機織りのことは、よく父や祖父から「まちのそこら中で機を織る音がしていたんだよ」と話は聞いていました。でも、自分が子どもの頃はハタオリのまちという印象はなかった。機屋さんと会ったり、工場などの現場を見る機会もなかったですし。
————では機屋さんの仕事風景を見たのは、大人になってから?
田辺 : それこそハタフェスの前に作られた『LOOM』という機織り産地を伝えるフリーペーパーの発刊記念でライブを頼まれて、工場の音を録りに行ったのが最初ですね。後から知ったのですが、テンジンの小林さんや渡辺織物のお父さんは、実は父と知り合いだったという。ハタフェスのライブ初回で会場をお借りした角田医院さんも、祖父や祖母と仲良かったという話もご挨拶したときに聞きました。
————個人邸でもある角田医院さんのあの素晴らしい場所を借りられたのは、そのご縁もあったからこそなんですよね。「運命的だ」とわたしたちも感じたことを覚えています。ここ数年、富士吉田に関わるようになってまちの印象は変わりましたか?
田辺 : 機屋さんのことだけではなく、自分が知っていた富士吉田のまちは、ごく一部だったことに気づきました。小さい頃には気づけなかった魅力がとても多いなと。住んでいる人も、個性がある人が多くておもしろいですね。いちばん最初のきっかけは『「まち」が ミュージアム!』でした。こんなことが富士吉田でできるのかという驚きがありました。それは、このまちに脈々と受け継がれてきた文化が、さまざまな文脈で組み合わさってきたからなのかもしれない。ハタフェスも同じで、行政の担当の方や実行委員、まわりの機屋さんや参加する人など、地元だけではない、いろいろな人が関わってそれがいい作用をしていると思います。
————まちをつくるのは人ですしね。さきほど少し話に出たこの織物産地のテーマソングとも言うべき『LOOM』ですが、どういった経緯で歌詞や曲が生まれたのでしょうか。
田辺 : 『LOOM』には自分の想いがとても投影されている気がします。機屋さんが時代の変化と闘ってきたことへの賛辞もこめていますが、自分のまちへの気持ちの変化というか、このまちが自分にとって大事なまちだったという事実が、曲と詩にあらわれています。
————曲だけでなく、詩も田辺さんが書いているのですね。
田辺 : あまり歌詞を書くということはしないのですが、あの曲は衝動的に曲も言葉も生まれたというか。『LOOM』発刊のための音楽会で演奏を依頼されたときは、曲をつくることはとくに頼まれていなかったんですよね。ただ、ライブで使えると思って織機の音を録りに機屋さんには行かせてもらいました。実際行ってみたらその音がとても面白くて。規則性のあるループする音はリズムに使えると思い、帰ってその日にすぐに曲をつくったと記憶しています。使わせてもらったシャットルの音は、テンジンさんで録らせてもらった音です。シャットル特有の動くスピード感もちょうどよかったんですよね。
————当時、機屋さんたちとの交流もされたのですか?
田辺 : 2015年頃だったと思うのですが、これから自分の表現をしていこうとかブランドを作ったばかりという自分と同年代の機屋さんたちとも話ができました。その時に、様々な産地の状況や時代に翻弄されてきた歴史があることも知りました。ちょうど自分もバンドを休止して、これからの道を模索している時期だったので、共通する想いがありました。それまで自分だけで曲を作るということはあまりなかったのですが、『LOOM』は完全に自分の中から生まれてきた曲で、その後の自分の活動に影響を与えてくれた意味のある曲になりました。
————ゆにさんは毎年この曲を産地で歌ってくれていますが、機屋さんやまちに対してどのような印象を持っていますか?
ゆに : この産地の機屋さんは人懐こい印象がありますね。話をしてみると、音楽やファッションや仕事も、とにかく楽しいことを知ってる人たちだなって思いました。オシャレというか粋な人が多いというか。 富士吉田特有のまちや人の気質な気がします。
田辺 : キャラクターがしっかりしている人が多いよね。
ゆに : わたしは『LOOM』があることで、機屋さんやまちの人とのコミュニケーションが深まったことは嬉しかったです。富士吉田だけじゃなく、ライブがあると各地でも歌うことがあったのですが「実はこのまちにも昔は機屋さんがいて」とか「織機の音がなつかしい」という、別の土地での会話の糸口にもなりました。
————毎年クロージングライブを一緒に作り上げてくれているお二人ですが、ハタフェスならではの要素も意識しているのでしょうか?
ゆに : このまちには機織り産業を支えて働いている人たちがいて、その人たちへ捧げる賛歌の気持ちはとても強いです。
田辺 : 機屋さんたちのことは自分もとても尊敬していて、みなさんがとても音楽を好きでいてくれているのが伝わってくるんですよね。自分も刺激を受けることが多いし、まちも素晴らしい景色が残っている。それを自分がやっている音楽で伝える、還元することができたらと思っていつも演奏しています。
————毎回、映像を組み合わせたり、機屋さんにも参加してもらったりと趣向を凝らしていますよね。
ゆに : どんどんやるたびにハードルがあがっていきますけどね(笑)。
田辺 : 注目してもらって責任も感じてくるよね、いい意味でだけど。
————思い出に残っているハタフェスライブはありますか?
ゆに : 2018年のライブで、作家でもある堀田さんに手織り織機を曲と合わせてステージ上で動かしてもらって、その映像をスクリーンに投影しつつお客さんに見てもらったのはハタフェスらしい演出でした。ハタフェスのライブは、イベントの最後に演奏するのでお客さんは、わたしたちのことを知ってる人も知らない人も、いろいろな人が参加しています。なので、総合的に楽しんでもらうということを意識していて、いつものライブとは違ったチャレンジもできています。ハタフェスでしかできない催しになっていたら嬉しいですね。
田辺 : 2016年の初回から携わっているライブなので、一緒に作り上げているという感じはとても強いですよ。呼ばれて出ているという感じとはまた違って、小さい頃の記憶や積み重ねてきたものが、ハタフェスのライブで繋がってここに立っているという印象です。他人事ではないな、と思えるんです。このまちの規模も人のやさしさもクリエイティブさが適度にまちに散りばめられているところも、この時代にそれが集積して変化が起きていることも、このまちの魅力だと思っています。
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前回は台風で、今年度はコロナ禍でハタフェスがしっかりと開催できない難しい局面が続きました。だからこそ前を向いていくために音楽の必要性を感じています。このまちを伝えるためには、必要不可欠とさえ言えます。これからもこのまちに、ハタオリの音が鳴り響くように。希望の音になるように。
(聞き手 : ハタオリマチフェスティバル実行委員 土屋)